ユリイカ、かもしれない。

いや、こう、なんていうか。

コーヒーの選択肢 “時間”と“儀式的行為”について

やれやれ、ここらが集中力の谷間か。

 

勉強や作業を中断する言い訳として、イチから豆を挽いてコーヒーを淹れる自分がいる。

キッチンへ向かい、1カ月前に買った(いまだ消費しきれていない)コーヒー豆をガラス製の密閉容器から取り出し、ミルでガリガリと削り、83℃の湯で蒸らす。

 

こうした手順を経て、コーヒーが僕の口に含まれるまで20分である。

 

 

果たしてアナタは、「めんどくさいことしてるなコイツ」と思っただろうか。

そんなことは分かっている。

インスタント・コーヒーであれば、ものの5分で黒い液体は飲める状態になる。

しかし思い出してほしい。僕は飲むためにコーヒーを淹れるのではなくて、何かをサボるためにコーヒーを淹れているのだ。そこにはある程度の時間が発生し得なければならぬ。

 

 

閑話休題

ハンドドリップは20分、インスタントは5分だ。

この所要時間の差に、いったいどのような意味を見出せるだろうか。

 

インスタント・コーヒーが発明されたのは18世紀後半であったが、本格的に普及したのは20世紀のようだ。(参照:Wikipedia『インスタントコーヒー』)

なるほど“スピード”を追い求めた20世紀の様相と重なる部分がある。

 

20世紀は、車や鉄道などモビリティをはじめ、コンピュータや通信、その他多岐にわたる分野において高速化が図られた時代である、と僕は理解している。

(そしてそれらがあってこそ現代は成り立っているのだ。)

(もっと言えばこれらは全部“広義のメディア”に分類される)

「20世紀を構成する一部としてインスタント・コーヒーが存在する」といっても論理は破綻していないと思う。

(そう考えたら、コーヒーも“メディア”かもしれない)

 

先ほど挙げた例は、すべて“技術”の発明だ。理系バンザイ。

しかし、僕はあくまで文系なので次のようなことしか考えられない。文系バンザイ。

 

「たしかにこれらは“技術”の発明であるが、そうであると同時に“時間”の発明である。」

 

コーヒーを飲むために20分をかけていた時代は終わった。

これからの君は5分さえかければ良い。

空いた“時間”は好きなように使ってくれ。

インスタント・コーヒーは僕らにそう語りかけている。

 

 

たしかに“時間”は短縮された。

しかし、気づいてほしい。

その目的である“行為”は以前とまったく変わらないのである。

この“時間”と“行為”の関係性に気が付いたとき、おそらく人間は2つの選択肢を与えられる。

「“時間”を短縮する」か「“行為”を儀式的なものと捉え、手順を変えない」だ。

この選択肢の前に立ったとき、人間の思考(嗜好)というのは面白いほどに見えてくる。

 

新幹線や飛行機で直行する人/青春18きっぷを使って鈍行列車で旅をする人

ストリーミングで音楽を聴く人/レコードで音楽を聴く人

インスタント・コーヒーで済ませちゃう人/ハンドドリップ・コーヒーを飲む人

 

さて、アナタはこの選択肢をどのように解釈するだろうか。

僕は相変わらず、ハンドドリップ・コーヒーを飲み続けるだろう。

 

なに変態だって?

うるせえ。誉め言葉だよソレ。ありがとう。