ユリイカ、かもしれない。

いや、こう、なんていうか。

アーカイヴの実践的形態として

僕は、三歳の頃に “トーマス・ランド” へ行った。
あれはたしか富士急ハイランドに併設されたものだったであろうか。
「そして今でもその記憶は残っている」と言うと、あるいは嘘なのかもしれない。

実のところ、本当に “トーマス・ランド” に行ったと、自信をもって断言することは出来なくなってしまったのである。僕はもう二十歳なのだ。無理はない。
記憶の中の “トーマス・ランド” に、僕は行ったのかもしれない。はたまた夢か、別の記憶との取り違え、なのかもしれない。

しかし、大事なのは記憶の真偽ではないのだ。
べつにそんなことは、どうだって良いのだ。
そこで楽しんだという、ぼんやりとした感情があれば、それで良いのだ。

現代のネット空間では、人びとが自由に彼らの感情を表現することが可能になった。マクルーハン的(厳密に言えば身体ではないので違うが)に言えば、“表情および思想の拡張” が、SNSをはじめとするネット・メディア空間の特徴だと言うことができるかもしれない。
しかし、それら感情/思想は流動的かつ瞬発的な衝動であり、呟きとして書き残してはいるが “記録” としては不完全なものであると、僕は考えている。

僕がこのブログで実践したいのは、“思考と感情のアーカイヴ” である。
これらは決して、瞬間的であってはならない。
真偽不確かな “トーマス・ランド” での感情だけが残っているように、そしてそれが唯一のそこでの思い出となっているように、感情は僕という人間を探る鍵となる。
さらに、アカデミックな環境に身を置く人間として、思考も保存し、いつでも見られるようにしたい。
それが本ブログを開設した主たる目的だ。

この目的を達成するために必要なのは、アーカイヴとして書き残す主体である僕と、アーカイヴを探る(ある意味、他者性を帯びた)僕と、そして本ブログを暇潰しに見る客体としてのアナタだ。
“アーカイヴを探る僕” と “客体としてのアナタ” が、もし「おもしろい」と感じてくれるならば、このブログのアーカイヴとしての責務は果たされることになるのだ。
だが、面白さに寄せるつもりは微塵もない。だって記録を残すのって地味な作業じゃん。

ここまで書けば、本ブログの趣旨およびタイトルを、少しは理解していただけるだろうか。