ニキビと記号、ノスタルジー
恥ずかしながら、この歳になったのに、頬に大きなニキビができてしまった。
幸いにも、僕の存在を構成するうえで顔はそれほどの役割を果たしていない(要するに“かっこいい”顔ではない)ので、“容姿として”それほど気にする義務は無いのだけれども。
しかし、出来たら出来たで気になるものだ。
自分でも気になるし、他者からの目線もそれなりに意識してしまう。
この際、「目線」よりも、その奥に在る、僕に対する印象が気になるといったほうが正しいのだが。
思えば思春期には、ニキビなんて顔面に常日頃生産・増産されていたものだ。
それは男女問わずそうであろう。
「ニキビ顔の少年」なんて言葉が小説に出てきたら、それは10代半ばの青年を暗喩している。ということが読み取れるくらいに、“思春期とニキビ”には密接な、まるで双子の兄弟のような関係性が、生じている。
密接かつ在って当たり前な存在であるからこそ、「ニキビが顔面にできた」なんて、(少なくとも10代の僕にとっては)さしたる問題ではなかったのだ。
では、なぜ、仲の良かった僕らは互いにその存在を認めなくなってしまったのだろうか。
ニキビという物質と、僕という物質的な存在は、この5年程度では少しも変わらなかったにも関わらず、だ。
僕はこの不仲の原因を「ニキビをめぐる記号論」に求めたい。
記号論(学)というのは言わずもがな、フランスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールによって導かれた論である。
(wikipedia先生:『フェルディナン・ド・ソシュール』)
はじめて記号論に触れる人のためにざっくり(本当にざっくり)説明しておくと、これは「我々の身の回りに存在するものは全て“記号”であり、この記号は“表現するもの”(シニフィアン、能記)と“表現されるもの”(シニフィエ、所記)の二つで成り立っている」という学説である。
これを理解するためによく使われる例で具体的に説明すると、
例えば、この色があったとしよう。
この色は記号論で言うところの“表現されるもの”である。
そして、この色を日本語話者は「あ・お」と呼ぶ。この発音がまさにこの色を“表現するもの”であり、これらが組み合わさることにより、「記号の意味」が作用する(我々にとって理解できる状態になる)わけなのである。
もっと簡単に言えば、我々の周りに存在するものは全て「“概念”と“それを表現するもの(音、カタチなどなど)”」に分けられるというのである。
さらに、この“表現するもの”と“表現されるもの”の関係性は「恣意的」であり、そこに必然性は無い。ということも、記号論では重要なポイントだ。
先ほど、この色を日本語話者は「あ・お」と呼んだが、英語話者に言わせれば「blue」となることが例に挙げられる。
そして(長くなってしまったが)、“表現するもの”にたいして“表現されるもの(=概念)”が複数挙げられる、という現象も現実ではあり得る。
例えば、「冬」という“表現にするもの”に対して、我々は「四季の一つ」という“概念(=表現されるもの)”のみならず、他にも「人間関係の冷え込み」や「何か(景気とか)状態が良くないこと」という概念も想起されるということがあるだろう。
この状態を、記号論のなかでは“メタファー”(な状態である)という。
ニキビというシニフィアンと、思春期であれば “成長を示すもの” というシニフィエとは、相互的に、かつ恣意的に結びつけられた記号であったのに対して、今はそうでない。
服装や容姿にある程度の“清潔感”が求められるようになった20代では、それは単なる異物である。ニキビはいつの間にか、「邪魔者」というシニフィエと結びついてしまったのである。
まあ、でもそれは仕方ないことだろう。
だって「ニキビ」は様々な概念と結びつくメタファーなのだから。
しかし私はこの変化に対して少しばかり哀愁というか、喪失感というか、ともかく何か淋しさを感じてしまう。
それは私や周囲の価値観に起因するものではなく、懐かしさそのものであるとも言える。「ニキビ」が「成長の証明」という記号であった時代には、二度と戻れないのである。
思えば、「懐かしさ」および「ノスタルジー」とは、このような記号の編成における変化の賜物なのかもしれない。例えば、久しぶりに小学校の通学路を辿ったときに感じる「懐かしさ」は、私が小学生(⇒ただの学校への道)ではなく大学生(⇒過去に頻繁にたどった道、遊び場、寄り道)であるからこそのものである。
このときに考えたいのは、「懐かしさ」や「ノスタルジー」は、単なる時系列上における時間の経過なのかということである。
その本質は記号編成の変化であって、時間の経過は単なる副産物ではないか。
では、私たちの記憶における「時間」は何なのだろうか。
そもそも「記憶」って何なのだろうか。
「懐かしさ」とは?
長くなっちゃったから、また今度。