ユリイカ、かもしれない。

いや、こう、なんていうか。

私たちのノスタルジーなんだぜ ⑴

この頃、ノスタルジーという感覚をどのように捉えればよいのか、考えるのをやめられないでいる。

とりわけ私が注目し(そして違和感をもっ)ているのは、とある遊園地で昭和の町並み=風景が再現されたことである。そこには、私とだいたい同じような年恰好の若者が、こぞって訪れているのだという。

 

「過去」がいやに近づいている。かつて大正ロマンがもてはやされ、高度経済成長期の昭和を舞台にした物語がスクリーンに投影され、いまや平成までもが懐かしまれつつある。ノスタルジーの対象となる過去はもはや遠い過去ではなく、私たちのすぐ隣の過去である。私たちは、まるで猫を膝に乗っけて可愛がるかのように、微笑みをもってそれぞれの時代を懐かしんできた。

だが、この猫は私たちの膝の上から容易に立ち去らないようだ。私が気にしているのは、高度経済成長期がとりわけ長くノスタルジーの対象とされていることである。このことが示すのは、たとえ時代が10年進んだとしても、同時にノスタルジーの対象も10年進むとは言えない、という事実である。私たちがノスタルジーを感じうる「過去」は、どうも直線的な時間軸の上には無いようだ。

 

その時代を懐かしむことに飽きた、と言いたいのではない。だんだんと不気味で気持ち悪く感じるようになってきたのだ。「過去」がこれほどまでに厚かましく存在し続けたことが、かつてあっただろうか。

私たちがどれほど「いなくならないで」と懇願しても、猫は普通、気ままに人間の膝から立ち去る。ひとつの時代も、普通は流れ去って忘却されていくものであろう。立ち去らない猫は猫らしくないし、進まない時間は時間らしくないのだ。

ずっとそこに存在する不気味さ、そして人々がその不気味な猫を微笑みながら撫で続ける不気味さ。

 

私たちはずっと「昭和」に囚われ続けているのだ、と言い表すことは出来るだろう。

だが少し考えてほしい、私たちの膝があるからこそ、猫はそこに居つづけるのだ。私たちは喜んで膝を差し出す。とすれば、問題なのは「昭和」という時代ではなくて、私たちがその時代にどのように接しているのか、といったことなのではないか。

 

私たちは過去そのものを写したフィルムや、過去を再現した映像や、あるいはその遊園地のように環境として再現された過去を喜んで受容する。さらには、ただ古いというだけで価値が高いものであるとし、積極的に保存しようともする。

過去は当たり前に存在するのではなく、私たちが思い出しつづけ、残したいと思うからこそ存在できるのである。

 

だが、ノスタルジーの問題はいっそう複雑である。

私たちは直接的に経験しなかった過去を、あくまで過去として捉えるのか、あるいは新しいものとして捉えるのかといった問題が一方で存在する。

知りもしない過去を、どうして懐かしむことが出来るのだろうか。単純に考えれば、若者の目に昭和は「新しく」うつるはずである。だが、どうしてかそうとも言い切れない。私たちが ――かく言う私も過去を懐かしみがちな若者の一人なのであるが―― 古いものを目の当たりにしたとき、持ちうる感想は「なんだか懐かしい」である。そうでなければノスタルジーは成立しない。

言い換えれば、新しくあるはずの「過去」であっても、私たちはあくまで「過去」として認識しているのである。

このことを、いったいどのように説明したらよいだろうか。

 

衝動的に書き始めたので、続きをゆっくりと考えたい。

ルーズ・ソックスの記憶と歴史

 

 

先日、ツイッターのタイムラインに興味深いものを見かけた。

 

それは、ルーズ・ソックスが「博物館」の展示物になっているという内容のツイートであった。

博物館の展示物になっているということは、それが歴史的物になったことを示す象徴的な出来事である。しかし、それは歴史であり、いっぽうで記憶でもある。それが記憶であることを示すのは、前述のような内容が発話されたということである。

ツイッター内で「ルーズソックス 博物館」と検索していただきたい)

 

 

「歴史になる」あるいは「記憶である」ということは、どのようなことであるか。

一般には、それは時間的な隔たり(数直線上の距離感)をもって説明されるかもしれない。

 

例えば、平安時代の食事は「歴史」の教科書に掲載される。

一方で、数日前の夕飯のメニューは「記憶」である。

 

国民的な出来事に的を絞れば、玉音放送を聴いてうなだれる人々のイメージは、「歴史」である。

いっぽうで、東日本大震災津波の映像(イメージ)は「記憶」である。

 

このような対比で考えた場合、たしかに「歴史」と「記憶」の差異は、時間的な隔たりが存在するかしないかによって説明されそうだ。

すなわち、時間的な隔たりが大きいほど「歴史」として横たわり、比較的近接的な過去に関することは「記憶」として捉えられてしまうかもしれない。

 

 

もう一度ルーズ・ソックスに話を戻そう。

このモノは、ところが、「記憶」と「歴史」の境界に位置している。すなわち、ある者はこれらを「記憶(=懐かしい)」と捉え、またある者は「歴史」と捉えるのである。

前述のような議論では、この現象を上手く説明することは出来ない。

それは、「ここまでは“記憶”で、ここからが“歴史”である」という明確な基準が設けられていないことに由来するだろう。出来事から五十年経てば自動的に歴史なのだろうか、そんなわけはないだろう。

つまり、時間は分水嶺を持たない。分水嶺が無ければ、そこに位置することもあり得ない。

当たり前であるが、時間とは直進、あるいは循環する概念である。そこに山は無い。

 

 

ならば、「記憶」と「歴史」の差異はどこに求められるであろうか。

モーリス・アルヴァックスは「記憶(集合的記憶)」と「歴史」とを明確に区分する。

金瑛によると、「アルヴァックスは、<集合的記憶>を『生きられた歴史』、『生きている歴史』とも定義」し、「それに対して歴史は『学ばれる歴史』、『書かれた歴史』と定義されている」(金 2020: 122 元引用および仏語表記は省略)。

つまり、「記憶」とは「書かれ学習される歴史に留まらない、人々が生きてきた過去である」のに対し、「歴史」とはあくまで「『客観性』といった指標によって無味乾燥に過去が処理されるだけ」(同掲上: 122)の概念なのだ。

アルヴァックスおよび金の議論を引き継ぐと、歴史は過去の剥製とも言えるだろう。

 

 

ルーズ・ソックスが博物館に収蔵されたことは、この意味で象徴的だと考えられる。

つまり、これらを身に付け、使用し「生きていた」人々が今も健在しているなかで、それらが剥製として博物館に展示されることになったのである。

 

おそらく彼女ら・彼らは、この事態に困惑したに違いない。

われわれの「思い出(souvenir)」だと思っていたものが、まさに剥製として、博物館に存在しているのである。博物館に存在するということは、それを客観することを強いられるということである。

 

 

「ルーズソックスが博物館に展示される時代なのか・・・」

(signa, 2020/11/06)

 

「ルーズソックスとポケベルが博物館レベルなの、泣いちゃった。(年齢的お察しのツイート)」

(さおぽこ, 2020/11/07)

 

 

このように、「記憶」から「歴史」への変化を象徴する出来事は、ある程度の精神的なショックを伴う出来事であったことが窺える。それはある種の喪失感と表現することもできるかもしれない。

いっぽうで、このような発話は、ルーズ・ソックスがいまだ「記憶」として存在していることを炙り出すものであると考えられる。抽象的に言えば、「歴史」への移行を介して「記憶」の存在を確認することができるのである。

 

このように、「記憶」と「歴史」の差異は、出来事が「生きている」と捉えられるか「死んでいる」と捉えられるかに求められると考えられる。

それには、記憶を保存する人、場の存在が鍵であると考えることもできる。

 

いま、「記憶」として保存する力学と「歴史」として剥製化する力学とが交錯する点こそが、ルーズ・ソックスなのである。

 

 

ニキビと記号、ノスタルジー

 

 

恥ずかしながら、この歳になったのに、頬に大きなニキビができてしまった。

 

幸いにも、僕の存在を構成するうえで顔はそれほどの役割を果たしていない(要するに“かっこいい”顔ではない)ので、“容姿として”それほど気にする義務は無いのだけれども。

 

しかし、出来たら出来たで気になるものだ。

自分でも気になるし、他者からの目線もそれなりに意識してしまう。

この際、「目線」よりも、その奥に在る、僕に対する印象が気になるといったほうが正しいのだが。

 

 

思えば思春期には、ニキビなんて顔面に常日頃生産・増産されていたものだ。

それは男女問わずそうであろう。

「ニキビ顔の少年」なんて言葉が小説に出てきたら、それは10代半ばの青年を暗喩している。ということが読み取れるくらいに、“思春期とニキビ”には密接な、まるで双子の兄弟のような関係性が、生じている。

 

密接かつ在って当たり前な存在であるからこそ、「ニキビが顔面にできた」なんて、(少なくとも10代の僕にとっては)さしたる問題ではなかったのだ。

 

では、なぜ、仲の良かった僕らは互いにその存在を認めなくなってしまったのだろうか。

ニキビという物質と、僕という物質的な存在は、この5年程度では少しも変わらなかったにも関わらず、だ。

 

僕はこの不仲の原因を「ニキビをめぐる記号論」に求めたい。

 

 

記号論(学)というのは言わずもがな、フランスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールによって導かれた論である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB

(wikipedia先生:『フェルディナン・ド・ソシュール』)

 

 

 

はじめて記号論に触れる人のためにざっくり(本当にざっくり)説明しておくと、これは「我々の身の回りに存在するものは全て“記号”であり、この記号は“表現するもの”(シニフィアン、能記)と“表現されるもの”(シニフィエ、所記)の二つで成り立っている」という学説である。

 

これを理解するためによく使われる例で具体的に説明すると、

 

例えば、この色があったとしよう。

この色記号論で言うところの“表現されるもの”である。

そして、この色を日本語話者は「あ・お」と呼ぶ。この発音がまさにこの色を“表現するもの”であり、これらが組み合わさることにより、「記号の意味」が作用する(我々にとって理解できる状態になる)わけなのである。

もっと簡単に言えば、我々の周りに存在するものは全て「“概念”と“それを表現するもの(音、カタチなどなど)”」に分けられるというのである。

 

さらに、この“表現するもの”と“表現されるもの”の関係性は「恣意的」であり、そこに必然性は無い。ということも、記号論では重要なポイントだ。

先ほど、この色を日本語話者は「あ・お」と呼んだが、英語話者に言わせれば「blue」となることが例に挙げられる。

 

そして(長くなってしまったが)、“表現するもの”にたいして“表現されるもの(=概念)”が複数挙げられる、という現象も現実ではあり得る。

例えば、「冬」という“表現にするもの”に対して、我々は「四季の一つ」という“概念(=表現されるもの)”のみならず、他にも「人間関係の冷え込み」や「何か(景気とか)状態が良くないこと」という概念も想起されるということがあるだろう。

この状態を、記号論のなかでは“メタファー”(な状態である)という。

 

 

 

ニキビというシニフィアンと、思春期であれば “成長を示すもの” というシニフィエとは、相互的に、かつ恣意的に結びつけられた記号であったのに対して、今はそうでない。

服装や容姿にある程度の“清潔感”が求められるようになった20代では、それは単なる異物である。ニキビはいつの間にか、「邪魔者」というシニフィエと結びついてしまったのである。

まあ、でもそれは仕方ないことだろう。

だって「ニキビ」は様々な概念と結びつくメタファーなのだから。

 

しかし私はこの変化に対して少しばかり哀愁というか、喪失感というか、ともかく何か淋しさを感じてしまう。

それは私や周囲の価値観に起因するものではなく、懐かしさそのものであるとも言える。「ニキビ」が「成長の証明」という記号であった時代には、二度と戻れないのである。

 

 

思えば、「懐かしさ」および「ノスタルジー」とは、このような記号の編成における変化の賜物なのかもしれない。例えば、久しぶりに小学校の通学路を辿ったときに感じる「懐かしさ」は、私が小学生(⇒ただの学校への道)ではなく大学生(⇒過去に頻繁にたどった道、遊び場、寄り道)であるからこそのものである。

このときに考えたいのは、「懐かしさ」や「ノスタルジー」は、単なる時系列上における時間の経過なのかということである。

その本質は記号編成の変化であって、時間の経過は単なる副産物ではないか。

 

では、私たちの記憶における「時間」は何なのだろうか。

そもそも「記憶」って何なのだろうか。

「懐かしさ」とは?

 

 

長くなっちゃったから、また今度。

僕とあなたは、違う存在ですので。

 

 

ということを言われると、「冷たい」と感じるかもしれない。

「なんだこの野郎」と憤る人もいるかもしれない。

 

一見、何の情緒もない、身も蓋もない言葉は、実は人間関係の本質を表した言葉であると僕は考えている。

 

 

社会学という学問では、大衆をその研究対象にしたり(社会科学)、或いはもっとミクロな人間関係を対象にする。

後者では、例えば身体に障碍を持った方など、社会的に弱い立場に置かれた人々と社会とのかかわりあいについて考察する(僕自身は、威張れるほど場数を踏んだわけではないのだが)。

このような場合において、“部外者” である僕は、どのように彼らに接すればよいのだろうかと、幾度となく頭を悩ませてきた。

あなたはこの問題について、どのような答えを出すだろうか。

 

 

おそらく、これには2通りの答えがある。

「その人の身になってみる」という、小学校で学習する道徳の授業のような答えと、

「僕はあくまで “部外者” である」という答えだ。

 

そう、僕は彼らにとって、紛れもなく、間違いなく、部外者なのである。

批判を恐れずに言えば、この逆も然りなのだ。

 

“部外者” であるとは、“僕はその人ではない” ということである。

つまり、自己は自己であって、他者と同一ということはあり得ないのである。

 

ここで一つ、また問いが生まれる。

「自己とは何であって(また他者とは何であり)、他者について考えるということはどのようなことか」

ということだ。

 

自己が自己であることを、人間はやめられない。

換言すれば、現実に存在する私は、自己であること(自己同一性)を携えて存在するのである。

そうでなければ自己が社会的に存在する価値を自ら見出せないし、文字通り「社会の歯車」なのである。

しかし人間は機械(歯車)ではなく、そして機械ではないということは「自己が自己である」という認識を持っていることである(と僕は考えている)。

 

人間は自己として、現実に存在する。

これは「実存」という概念に考えられるが、それはまたあとで考察しよう。

ここで整理したいのは、他者は自己とは異なる存在であるということだ。

まあ、当たり前なんだけど。

 

一般に、自己とは人間の“他者”の部分を排した存在である。

(「あなたが私のアイデンティティのすべてです」なんて人はいるだろうか?)

しかし、人間は自己から他者を完全に排除できるのかというと、それは不可能である。

なぜなら、人間は他者を通して自己を形成するからだ。

それが、ルーマンが言う「相互浸透」を通したアイデンティティ形成である。

要するに、本質的に自己は他者を含有したものであると言うことが出来よう。

だけれども、上述のように、自己は自己の内に他者という存在を意識することができない。

さらに言えば、反省的次元に立たない限り、自己は「いま-ここに-いる」自己しか認識できないのである。

 

それを踏まえたうえで、自己は、他者が抱える問題についてどのように考えるべきかというのが、本論の要旨である(やっと本題に帰ってこれた)。

結論から言えば、「いま-ここで-考えている」自己(現実存在)を尊重したうえで、他者について考えるというのが、僕の現時点での答えである。

現実存在である自己への尊重は、つまり他者への尊重でもある。

「私と異なるあなたが居る」からこそ、他者は尊重の対象になるのだ。

反対に、自己と他者を同一視する視線は、傲慢であると考える。

 

だからこそ、他者について考える際に、まずは、いまここに「現実存在する私」を自覚的なレヴェルで認識する必要があるのだ。

そのようにして考えられたことに正当な価値があるのだ、と僕は主張したいのである。

それは日常的な、平凡な人間関係でも同じことだ。

 

 

「私とあなたは違うのです」

 

だからこそ、多様性があり、「共振(アルフレッド・シュッツ)」でき、様々な人が入り乱れ参画し作ることができる社会があるのだと考えるのである。

 

「みんなちがって、みんないい」とは金子みすゞの言葉であるが、

自他問題を考えるうえで、はたまたその中で起こる社会的な問題を考えるうえで、もう一度これを見直すことが必要ではないだろうか。

もちろん、「みんなちがって、みんないい」の先を考える必要があることも留意して。

共感と、人間と、メディア

「つらさに敏感である人を、本当の教養人と呼ぶ」とは、太宰治の言葉である。

 

 

 

僕が属する若年層は “共感の世代である” と、

半ば的確に、半ば揶揄されながらも、語られてきた。

でも、果たしてこれは若者だけのことなのだろうか。

 

凄惨な事件が起こる。時代のせいだろうか。

その度に、私たちは胸を痛めるだろうし、実際になんだか苦しい気がする。

 

悲惨な災害が起こる。地球環境のせいだろうか。

ここでも、私たちは胸を痛めるだろうし、実際に報道写真を直視できないこともある。

 

 

そのたびにSNSは、悲痛な声や心配で氾濫する。

たしかにSNSのユーザは若年層が多いし、実際に若者は共感の声をあげている。

しかし、共感という行為は年齢によるのではなく、むしろ人間の性(さが)ではないだろうか。

 

理性を持った “教養(educated)人” は、その理性によってつらさを感じ取り、共感するだろう。

子どもでも大人でも、それは変わらないことであるべきだ。

 

だからこそ私たちは、声をあげるツールが滅びない限り、共感し続けるべきだ。

そのことの意味なんて今は誰にも分からない。

現象学の言葉を借りるに、「意味は過去を反省したときに発生する」のだ。

 

 

テレビ・ニュースの画面に映るアナウンサーが、

「どこに怒りをぶつければよいのかわからない」と発言した。

 

「マス・メディアがソーシャル・メディアに接近している」

なんて難しいことはここでは言いたくない。本質はこれではないのだ。

 

本質は、メディアと、そこに表象される人間の “共感” そのものに在るのだ。

 

コーヒーの選択肢 “時間”と“儀式的行為”について

やれやれ、ここらが集中力の谷間か。

 

勉強や作業を中断する言い訳として、イチから豆を挽いてコーヒーを淹れる自分がいる。

キッチンへ向かい、1カ月前に買った(いまだ消費しきれていない)コーヒー豆をガラス製の密閉容器から取り出し、ミルでガリガリと削り、83℃の湯で蒸らす。

 

こうした手順を経て、コーヒーが僕の口に含まれるまで20分である。

 

 

果たしてアナタは、「めんどくさいことしてるなコイツ」と思っただろうか。

そんなことは分かっている。

インスタント・コーヒーであれば、ものの5分で黒い液体は飲める状態になる。

しかし思い出してほしい。僕は飲むためにコーヒーを淹れるのではなくて、何かをサボるためにコーヒーを淹れているのだ。そこにはある程度の時間が発生し得なければならぬ。

 

 

閑話休題

ハンドドリップは20分、インスタントは5分だ。

この所要時間の差に、いったいどのような意味を見出せるだろうか。

 

インスタント・コーヒーが発明されたのは18世紀後半であったが、本格的に普及したのは20世紀のようだ。(参照:Wikipedia『インスタントコーヒー』)

なるほど“スピード”を追い求めた20世紀の様相と重なる部分がある。

 

20世紀は、車や鉄道などモビリティをはじめ、コンピュータや通信、その他多岐にわたる分野において高速化が図られた時代である、と僕は理解している。

(そしてそれらがあってこそ現代は成り立っているのだ。)

(もっと言えばこれらは全部“広義のメディア”に分類される)

「20世紀を構成する一部としてインスタント・コーヒーが存在する」といっても論理は破綻していないと思う。

(そう考えたら、コーヒーも“メディア”かもしれない)

 

先ほど挙げた例は、すべて“技術”の発明だ。理系バンザイ。

しかし、僕はあくまで文系なので次のようなことしか考えられない。文系バンザイ。

 

「たしかにこれらは“技術”の発明であるが、そうであると同時に“時間”の発明である。」

 

コーヒーを飲むために20分をかけていた時代は終わった。

これからの君は5分さえかければ良い。

空いた“時間”は好きなように使ってくれ。

インスタント・コーヒーは僕らにそう語りかけている。

 

 

たしかに“時間”は短縮された。

しかし、気づいてほしい。

その目的である“行為”は以前とまったく変わらないのである。

この“時間”と“行為”の関係性に気が付いたとき、おそらく人間は2つの選択肢を与えられる。

「“時間”を短縮する」か「“行為”を儀式的なものと捉え、手順を変えない」だ。

この選択肢の前に立ったとき、人間の思考(嗜好)というのは面白いほどに見えてくる。

 

新幹線や飛行機で直行する人/青春18きっぷを使って鈍行列車で旅をする人

ストリーミングで音楽を聴く人/レコードで音楽を聴く人

インスタント・コーヒーで済ませちゃう人/ハンドドリップ・コーヒーを飲む人

 

さて、アナタはこの選択肢をどのように解釈するだろうか。

僕は相変わらず、ハンドドリップ・コーヒーを飲み続けるだろう。

 

なに変態だって?

うるせえ。誉め言葉だよソレ。ありがとう。

アーカイヴの実践的形態として

僕は、三歳の頃に “トーマス・ランド” へ行った。
あれはたしか富士急ハイランドに併設されたものだったであろうか。
「そして今でもその記憶は残っている」と言うと、あるいは嘘なのかもしれない。

実のところ、本当に “トーマス・ランド” に行ったと、自信をもって断言することは出来なくなってしまったのである。僕はもう二十歳なのだ。無理はない。
記憶の中の “トーマス・ランド” に、僕は行ったのかもしれない。はたまた夢か、別の記憶との取り違え、なのかもしれない。

しかし、大事なのは記憶の真偽ではないのだ。
べつにそんなことは、どうだって良いのだ。
そこで楽しんだという、ぼんやりとした感情があれば、それで良いのだ。

現代のネット空間では、人びとが自由に彼らの感情を表現することが可能になった。マクルーハン的(厳密に言えば身体ではないので違うが)に言えば、“表情および思想の拡張” が、SNSをはじめとするネット・メディア空間の特徴だと言うことができるかもしれない。
しかし、それら感情/思想は流動的かつ瞬発的な衝動であり、呟きとして書き残してはいるが “記録” としては不完全なものであると、僕は考えている。

僕がこのブログで実践したいのは、“思考と感情のアーカイヴ” である。
これらは決して、瞬間的であってはならない。
真偽不確かな “トーマス・ランド” での感情だけが残っているように、そしてそれが唯一のそこでの思い出となっているように、感情は僕という人間を探る鍵となる。
さらに、アカデミックな環境に身を置く人間として、思考も保存し、いつでも見られるようにしたい。
それが本ブログを開設した主たる目的だ。

この目的を達成するために必要なのは、アーカイヴとして書き残す主体である僕と、アーカイヴを探る(ある意味、他者性を帯びた)僕と、そして本ブログを暇潰しに見る客体としてのアナタだ。
“アーカイヴを探る僕” と “客体としてのアナタ” が、もし「おもしろい」と感じてくれるならば、このブログのアーカイヴとしての責務は果たされることになるのだ。
だが、面白さに寄せるつもりは微塵もない。だって記録を残すのって地味な作業じゃん。

ここまで書けば、本ブログの趣旨およびタイトルを、少しは理解していただけるだろうか。