僕とあなたは、違う存在ですので。
ということを言われると、「冷たい」と感じるかもしれない。
「なんだこの野郎」と憤る人もいるかもしれない。
一見、何の情緒もない、身も蓋もない言葉は、実は人間関係の本質を表した言葉であると僕は考えている。
社会学という学問では、大衆をその研究対象にしたり(社会科学)、或いはもっとミクロな人間関係を対象にする。
後者では、例えば身体に障碍を持った方など、社会的に弱い立場に置かれた人々と社会とのかかわりあいについて考察する(僕自身は、威張れるほど場数を踏んだわけではないのだが)。
このような場合において、“部外者” である僕は、どのように彼らに接すればよいのだろうかと、幾度となく頭を悩ませてきた。
あなたはこの問題について、どのような答えを出すだろうか。
おそらく、これには2通りの答えがある。
「その人の身になってみる」という、小学校で学習する道徳の授業のような答えと、
「僕はあくまで “部外者” である」という答えだ。
そう、僕は彼らにとって、紛れもなく、間違いなく、部外者なのである。
批判を恐れずに言えば、この逆も然りなのだ。
“部外者” であるとは、“僕はその人ではない” ということである。
つまり、自己は自己であって、他者と同一ということはあり得ないのである。
ここで一つ、また問いが生まれる。
「自己とは何であって(また他者とは何であり)、他者について考えるということはどのようなことか」
ということだ。
自己が自己であることを、人間はやめられない。
換言すれば、現実に存在する私は、自己であること(自己同一性)を携えて存在するのである。
そうでなければ自己が社会的に存在する価値を自ら見出せないし、文字通り「社会の歯車」なのである。
しかし人間は機械(歯車)ではなく、そして機械ではないということは「自己が自己である」という認識を持っていることである(と僕は考えている)。
人間は自己として、現実に存在する。
これは「実存」という概念に考えられるが、それはまたあとで考察しよう。
ここで整理したいのは、他者は自己とは異なる存在であるということだ。
まあ、当たり前なんだけど。
一般に、自己とは人間の“他者”の部分を排した存在である。
(「あなたが私のアイデンティティのすべてです」なんて人はいるだろうか?)
しかし、人間は自己から他者を完全に排除できるのかというと、それは不可能である。
なぜなら、人間は他者を通して自己を形成するからだ。
それが、ルーマンが言う「相互浸透」を通したアイデンティティ形成である。
要するに、本質的に自己は他者を含有したものであると言うことが出来よう。
だけれども、上述のように、自己は自己の内に他者という存在を意識することができない。
さらに言えば、反省的次元に立たない限り、自己は「いま-ここに-いる」自己しか認識できないのである。
それを踏まえたうえで、自己は、他者が抱える問題についてどのように考えるべきかというのが、本論の要旨である(やっと本題に帰ってこれた)。
結論から言えば、「いま-ここで-考えている」自己(現実存在)を尊重したうえで、他者について考えるというのが、僕の現時点での答えである。
現実存在である自己への尊重は、つまり他者への尊重でもある。
「私と異なるあなたが居る」からこそ、他者は尊重の対象になるのだ。
反対に、自己と他者を同一視する視線は、傲慢であると考える。
だからこそ、他者について考える際に、まずは、いまここに「現実存在する私」を自覚的なレヴェルで認識する必要があるのだ。
そのようにして考えられたことに正当な価値があるのだ、と僕は主張したいのである。
それは日常的な、平凡な人間関係でも同じことだ。
「私とあなたは違うのです」
だからこそ、多様性があり、「共振(アルフレッド・シュッツ)」でき、様々な人が入り乱れ参画し作ることができる社会があるのだと考えるのである。
「みんなちがって、みんないい」とは金子みすゞの言葉であるが、
自他問題を考えるうえで、はたまたその中で起こる社会的な問題を考えるうえで、もう一度これを見直すことが必要ではないだろうか。
もちろん、「みんなちがって、みんないい」の先を考える必要があることも留意して。