共感と、人間と、メディア
「つらさに敏感である人を、本当の教養人と呼ぶ」とは、太宰治の言葉である。
僕が属する若年層は “共感の世代である” と、
半ば的確に、半ば揶揄されながらも、語られてきた。
でも、果たしてこれは若者だけのことなのだろうか。
凄惨な事件が起こる。時代のせいだろうか。
その度に、私たちは胸を痛めるだろうし、実際になんだか苦しい気がする。
悲惨な災害が起こる。地球環境のせいだろうか。
ここでも、私たちは胸を痛めるだろうし、実際に報道写真を直視できないこともある。
そのたびにSNSは、悲痛な声や心配で氾濫する。
たしかにSNSのユーザは若年層が多いし、実際に若者は共感の声をあげている。
しかし、共感という行為は年齢によるのではなく、むしろ人間の性(さが)ではないだろうか。
理性を持った “教養(educated)人” は、その理性によってつらさを感じ取り、共感するだろう。
子どもでも大人でも、それは変わらないことであるべきだ。
だからこそ私たちは、声をあげるツールが滅びない限り、共感し続けるべきだ。
そのことの意味なんて今は誰にも分からない。
現象学の言葉を借りるに、「意味は過去を反省したときに発生する」のだ。
テレビ・ニュースの画面に映るアナウンサーが、
「どこに怒りをぶつければよいのかわからない」と発言した。
「マス・メディアがソーシャル・メディアに接近している」
なんて難しいことはここでは言いたくない。本質はこれではないのだ。
本質は、メディアと、そこに表象される人間の “共感” そのものに在るのだ。